「ありのまま」とはどういう状態なのでしょう。
我慢しない?
周りに合わせない?
やりたいことをやる?
わたしは6000坪の耕作放棄地を4年前に購入し、
すべての生命が健やかに、「ありのまま」で在れる空間のモデルを創りたい
との想いから
再生活動をおこなってきましたが
「ありのまま」の定義が宙ぶらりんであることについ最近気がつきました。
なので
わたしが思う「ありのまま」の原体験をシェアしようと、ここに記しておきます。
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わたしの母は
父親の度重なる暴力や浮気の末、わたしが小学校低学年のときに
精神病になってしまいました。
朧げながら思い返すと、そのほかにも色んな病気を併発していたんだと思います。
わたしは現代社会のド真ん中の価値観の中で教育を受け、育ってきたため
まともに動けない、生活できない、働くなんてもちろんできない、そんな母に
「なんの価値があるんだろう」
と、不思議に思ったり、祖父母に生計を支えられている母に怒りすら感じていました。
社会に出てハタラクのが当たり前
ハタラけない者に価値はない
生み出す金額の大きさが人の価値の大きさ
大きな金額のために学歴が必要 etc…
そんな現代社会の「ものさし」で
母をたくさん傷つけてきました。
私が15歳のときのある日
母が遺体となって発見されました。
前夜には
いつもと同じような喧嘩をして
「お前なんて生きている価値がない」
「死んでしまえ」
とコトバでたくさん傷つけ
それが現実になったのです。
膝から崩れ落ち
数ヶ月泣き続け
自分を呪い
生きる意味を必死で探し
7年が経ちました。
『アナスタシア』という本に出会ったのです。
![](https://yakushima-dacha.com/wp-content/uploads/2022/11/F40FECFA-2188-4170-85B3-E3DB3F72E204-1024x683.jpeg)
直感的に
「これだ」
と、思いました。
なにが「これ」なのかは当時は整理もつかぬまま、がむしゃらにアナスタシアの提案のままに身体を動かしました。
それから、かれこれ4年が経ちました。
その間にわたしにも新たな家族ができ、娘ができ、母になりました。
いまだから分かること、それは
あのときの母を「ありのまま」肯定してあげたかった、ということ。
そして、
「ありのまま」でいることが肯定される環境を創ることで償いたい自分がいる、ということです。
私にとっての「ありのまま」は
ただ、生きる。
そして、それを幸せだと思える。
そんな状態
といえるのかもしれません。
何かをしようとしなくていい。
なにもしなくていい。
あなたがいる、
それがギフト。
心からそういえる環境を
わたしは
この世に
創りたいのです。
何もしないことが許される
それくらい
全てが満たされている空間づくりのため
アナスタシアが言うような
「手間いらずで年間を通して実りが絶えない果樹の森」
のための試行錯誤を
ココ、屋久島でつづけています。
長々と書きました。
最後まで読んでくださって、ありがとう。